2016年 学校建設に参加したボランティアたちの声です!
(2016年2月11日~2月28日)
I.M. さん
「思ったより貧しくないんだ。」これがホストファミリーと最初の週末を一緒に過ごして感じたことでした。きれいな洋服を着ていたし、携帯やカメラなどの電子機器も持っていたし、買い物中には気前よくジュースを買ってくれたりもしました。
しかし日が経つにつれて、ホストマザーの娘さんがシングルマザーであることや、長男がマニラで働いていて月に一度しか家族に会えないこと、次男夫婦はともに職がなく経済的にギリギリだということを知りました。他にも、お出かけ用の洋服が毎回同じであることや、水道を極力使わないようにしていることなど、一見すると見えてこない貧しさがそこにはありました。
それでも、ホストファミリーはみんな口をそろえて幸せだと言っていて、その背景には家族の存在が大きく関係しているのではないかと思いました。私のステイ先は、親戚一同で暮らしていたため、子どもがたくさんいて常に家の中が賑やかでした。父親がいなくて寂しいはずの男の子も、親戚のおじさんを父親のように慕っていたし、事情があって両親と一緒に暮らせない女の子も親戚の人に本当の娘のように育てられていました。
モノもお金もある日本と比べたら、フィリピンでの生活は不便かもしれません。街はゴミであふれているし、道路はガタガタで、信号もなく道はいつも渋滞しています。ほとんどのトイレが水洗ではなく、ティッシュすら置いてありません。しかしだからといって、不幸だとは全く思いませんでした。むしろ、多くのことに縛られて過ごさなければならない日本の方がよっぽど窮屈で苦しいなと思いました。毎日が驚きで、戸惑うことの方が多かったけれど、日本に帰ってきてからは向こうでのんびりした生活が恋しくてたまらないです。この18日間は今までの人生の中で一番充実した日々でした。出会ったすべて人に感謝したいです。
O.M. さん ボランティアを通して気づいたこと
私がフィリピンで過ごした18日間は20年間生きてきた人生の中で最も幸せで、一生忘れることとない思い出となりました。私がこのフィリピンでの生活で感じたことは大きくわけて、3つあります。1つ目はフィリピンの人々は家族をとても大切にしており、愛情が深いということです。フィリピンの人々は助け合いの精神がとても強いです。また彼らは本当の家族ではない私も本当の家族のように温かく迎え入れてくれました。それはホストファミリーに限らず、近所に住む人々や学校の生徒や先生なども同じでした。現地の家族を見ていても、両親が子供にたくさんの愛情を注いでおり、子供もまた両親や歳上の人を敬い、愛しているのを見て感じ取ることができました。私が特に印象的だったのはフィリピンの人々の笑顔です。彼らは日本と比べたら豊かとは言えない環境の中でもいつも幸せそうに笑っていました。それはフィリピンは愛に溢れた国だからではないかなと私は思います。
2つ目は、フィリピンの人々は時間に縛られていないということです。日本人はいつも時間を気にして、時間に縛られて生活をしているのではないかと、フィリピンに行って気がつきました。フィリピンでスーパーに行ったとき、レジにたくさんの人が並んでいて長い時間待つことになっても誰も文句を言いません。フィリピンではこれはごく普通のことのようで、現地でスーパーに行けば毎回レジはたくさんの人が並んでいました。フィリピンの人々は時間を守らないと聞いていましたが、それは時間にルーズだというよりも、フィリピンでは時間に縛られて生活をしていないのだと気がつきました。
3つ目は日本がとてもきれいな国であるということです。土日のエキスカーションでハンドレッドアイランドに行き、アイスを食べた時、アイスの棒を捨てたくてゴミ箱を探していたら、現地の人にその辺に捨てていいよと言われました。周りを見てみると確かにそこにはたくさんのアイスの棒などのゴミが落ちていました。日本ではいたるとことにゴミ箱が設置されており、ポイ捨てはいけないと誰もが知っています。ごく当たり前のようにポイ捨てをしているフィリピンの人々を見て、日本はとてもきれいな国だと改めて気がつきました。
私はこの18日間で、現地に行かなくては分からないフィリピンの良さをたくさん知り、日本と同じくらい大好きな国になりました。それと同時に日本の良さにも改めて気が付くことができました。 藤井さんをはじめとするRASAの関係者、ホストファミリーや学校の生徒や先生方、近所の人々、日本人ボランティア、そして応援してくれた両親、RASAボランティアで関わったすべての人に感謝したいと思います。本当にありがとうございました。
K.K. さん
みんなの笑顔の温かさにたくさん励まされた。人と人とのつながりがこんなにもかけがえのないものだと知った。おかげでずっと大切にしたいと思える仲間が増えた。「さよなら」がこんなにも惜しいなんて思ってもいなかった。
ボランティアに挑戦してみようと思ったきっかけは本当に些細なことだったけれど、フィリピンで過ごした18日間は私にとって一生の宝物です。
ホストファミリーは初めてのホームステイで不安だった私を温かい笑顔で出迎えてくれて、大きな安心感を与えてくれた。ほんの小さなことでも手伝ってくれたり、いつも私の気持ちになって考えてくれてよく「Take care!!」と気遣ってくれたりする自然な優しさがすごく心に染みた。家族で雑談する時間も最高に楽しかった。そんな毎日を送ってきたからこそ最後の日、別れが惜しかった。「Don’t cry cause it’s not the end. See you again.」本当にそうだな、と思いながらも涙が止まらなかった。
学校の子どもたちや近所の親戚も同じように私を心から歓迎して受け入れてくれた。私を包みこんでくれたその温もりは予想以上に私の心の中で大きく響いた。きっと日本でこんな感覚になることが少なかったからだと思う。手紙やremembranceであるブレスレットや写真までもらって、出会えたみんなとずっとずっと繋がっていたい強く思った。
そしてもちろんRASAのメンバーや職員の方々との出会いのおかげで、この18日間やってこられたことは間違いありません。毎日学校で建設作業をして現地の子どもたちとふれあい、フェアウェルパーティーの練習もみんなで取り組んで…なんだかんだずっと一緒に行動していたから、現地の人とだけでなく、私たちの絆もより深まりました。また、みんなの頑張る姿をみて自分も頑張ろうと励まされたことも多く、それが自分の成長にも繋がりました。最初と最後で一人ひとりの顔つきが全然違っている様子をみて、このメンバーで幸せだったなーとすごく思います。
すべての出会いとそこから得たものにとっっても感謝。一つ一つ忘れずに自分の中で一生大切にしまっておきたい。
H.K. さん
一昨年、昨年はフィリピンにおける日本に対する好意的なイメージや無知、偏見などを見聞きし、「フィリピンの人々に日本のことを知って欲しい」という思いを抱き参加した。今回のフィリピンへの参加は私にとって3回目であった。他者から見たら3度も参加する必要があるのかと思うかもしれないが、私は2016年度を「集大成の年」と位置づけ以下の3点①他者に批判されても動じないメンタリティーの獲得②長期的に物事を考える柔軟性③苦しい時でも前を向いて走りつづけられるかに主眼をおき参加するに至った。
学校建設の作業は、日本の建設現場と環境が異なったので初めは戸惑いを覚えたが、作業を限られた時間の中で必死になって行ったことは、一つのものを完成させることの喜びを私に教えてくれた。砂運び、セメントのバケツリレーなどは大変であったが、フィリピン人の建設員の方や学生メンバーと協力して行ったことで仲間の大切さを改めて感じることができた。さらに建設作業を通して、小さなことの積み重ねが大きな力を発揮する原動力に繋がるのだとわかった。
フィリピンでのホームステイについて生活環境への不安などがあったがホームファミリーの温かいもてなしのおかげで居心地のよい空間で過ごすことができた。また、日本の文化を少しでも伝えられたら嬉しいと思い折り紙、けん玉、日本食を持参した。そのかいあってか短い期間であったが楽しく過ごすことができた。最後の休日にスラム街のスモーキーマウンテンを訪れ、「生まれながらの貧困」を目の当たりにし、衝撃を受けた。誰もが平等に教育を受け、努力する機会を得られる社会を築くことの大切さを痛感した。
現在振り返ってみて、3度参加しても私自身のフィリピンに対する価値観が色褪せることは今からもこれからもないことを確信している。毎年思うことであるが、ラサのボランティア活動は真の人間同士のコミュニケーションの場だと私は思っている。ホームステイでの生活は本当の自分をさらけださなければならないし、英語でのコミュニケーションは積極性を必要とし消極的な面を取り除かなければならない。コミュニケーションは人間が生きていくうえで本質的な部分でありよりよい人生を歩んでいくには必要不可欠であることを学んだ。今回の体験を通して、私の方向ベクトルは変わった。今まで私は狭い視野で物事を考えていたが、これからは広い視野で物事を考えなければいけないことに気づいた。これから大学を卒業し社会人になったとき様々な困難に直面するであろう。だが長期的に物事を考えれば現在直面している困難など大したことではないことをフィリピンは私に教えてくれた。こらからの人生を歩むにあたって、強い信念をもち、絶えず自分自身を磨き続けるために私は走りたいと思う。
S.K. さん
今回が初めての海外で、飛行機が飛ぶとき、落ちたらどうしようということばかり考えていました。それでも飛行機はすいすい飛んで、降りた瞬間、うわっ暑い!と、着てきた上着の分厚さに、日本ではないんだという実感がわいてきました。
私がフィリピンに行こうと思ったのは、学校を建ててみたかったからです。日本以外の国の学校の建て方が気になって、どれくらいの人手でどれくらいの期間があれば建設できるのか知りたかったからです。フィリピンの学校に行って最初に目についたのは、屋根がないベニヤ板で壁ができていた教室です。日本ではこの状態で授業すると言ったら、親が抗議したりするんだろうなと思ったのですが、フィリピンではこんな状況も許されるんだと思って少しうらやましくなりました。
ホームステイも初めてでした。18日間知らない人の家に泊まるというのはすごくワクワクして楽しみでした。そして、予想以上に素晴らしく楽しいホームステイになりました。家族は全部で12人で、日本の通常の家族の人数の三倍くらいの人が、二部屋とリビングしかない家で暮らしていました。同い年くらいの兄弟が四人もいて、3歳くらいの弟までいました。とにかく子供だらけの家で、毎日みんなで遊んで、夜は歌を歌いました。日本は夜にうるさくするとご近所迷惑だといわれてしまうのですが、フィリピンではそんなことはありませんでした。昼も夜も関係なく、大きな声で楽しくおしゃべりできることが本当に幸せで幸せで幸せでした。
私はホームステイして三日目にしてとてつもない腹痛に襲われました。異国の地での暮らしによるストレスなのか食べ物が合わなかったのか分からないのですが、人生で一番痛かったのではなかろうかという痛みでした。おなかが痛くてママに「…very pain」と何とかつぶやくことができたのですが、ママはどうしていいか分からなくなってオロオロするばかり。私は体調が悪くなったら先生に連絡すればいいことを知っていたので、それを英語で伝えようとしたのですが、おなかが痛すぎて声も小さくなり頭も回らなくなって、なかなか伝えることができませんでした。そしたらもう何が何だか分からなくなって涙がぽろぽろ流れてきて、ママがもっとパニックになってしまいました。何とか先生に連絡するように伝えることができて、校長先生の家に連れて行ってもらえました。そこにはRASAの人もたくさんいて、おなかが痛い私のそばに長い時間いてくれて励ましてくれました。感動しすぎてまた泣いてしまいました。腹痛がやわらいでママのところに帰ったら、ママがぼろぼろ泣きながら「I`m worried about you because you are my family」といって抱きついてきました。ホームステイ三日目にしてお別れするみたいに二人で泣いて抱き合いました。私はその時本当にこの家族でよかったと感じました。
お別れの時は泣かないと決めていたけど、やはり泣いてしまいました。日本では人前で泣くなんてこと絶対にしないのに。フィリピンではものすごく素直になれた自分に驚いて、日本でも素直な自分を表現できるようになりたいと思いました。
Y.A. さん
中部空港でいきなり搭乗券をなくした私は、免税店を見る暇もなく駆け足で飛行機に乗り込んだ。今までの飛行機と違って、座った椅子にはテレビもラジオもない。唯一の暇つぶしは座席に詰め込まれた中国語のファッション誌のみ。そんな飛行機に揺られて、やっとの思いでマニラに着くやいなや、2月とは思えない暑さが襲いかかる。
ワケもわからぬまま空港を抜け出し、怪しい電飾の提げられたバスに乗り込んで、大渋滞の街を抜けて、高速に乗り、途中「ジョリビー」というハンバーガー屋で休憩して、合計6時間はずっと移動していただろうか。ようやく現地にたどり着いた時にはすっかり日が暮れ夜になっていた。予定より、2時間ほど遅れていた。それでも、集合場所の学校に入ると、現地の人達は明るく迎えてくれた。到着の翌日は賑やかなダンスで、その翌日はリンガエンの美しい浜辺で、私達をもてなしてくれた。
滞在して一週間もたつと、学校中から「アテ」(お姉ちゃん)、「クヤ」(お兄ちゃん)の声が飛び交うようになった。休み時間にはバスケットコートからクヤと遊ぶ無邪気な声が湧き、アテはみんなと写真を撮った。現地の人と私達との間で仲間意識が芽生えてきた。このフィリピンでの日々は本当に充実していた。それは、普段の旅行では味わうことのない「生のフィリピン」がそこにあるから、だったのだろう。現地の空気、現地の生活を肌で感じられて、私達は活動を嫌がること無く続けられた。むしろ、もっと長く、いつまでも、この場所で過ごしたいという気持ちでいっぱいだった。
そしてリンガエンを離れる頃には、ボランティアとして慈善活動をするはずだった私達のほうが、現地の人達からより多くのモノを得ていた。それは、人を人として尊敬する心であったり、家族、親戚を大切にする心であったり、今日を笑顔で生きる気持ちであったりした。太平洋戦争の痕跡が残るこの土地で、フィリピンの人たちは、純朴さを忘れること無く、日々を明るく過ごしていたのだ。たしかに日本は、もので溢れかえり、なんでも手に入る。街は綺麗だし、交通はしっかりしているし、フィリピンと違って仕事もある。欲するものは何もないように感じる。しかし、明るい夜の街は星空の美しさを隠し、車のために張り巡らせたコンクリートは草木も野良犬も寄せ付けない。都会に伸びた、たくさんのビルは、街から夕日の美しさも朝日の美しさも覆い隠してしまった。家族みんなで健康に、日々感謝して暮らす。それはあまりにもあまりにも単純で、あまりにもありきたりで、それでいて私の知らない幸福だった。
ここまで書いて何が言いたかったのかというと、フィリピンに行けて本当によかった。
M.Y. さん
「危ないからやめておきなさい。」これは、私がフィリピンに行くことを決めた時に母親から言われた言葉である。現在、多くの日本人が発展途上国と聞くとあぶない、不潔などの否定的なイメージを思い浮かべる。実際に私もフィリピンに行く前にそう考えていた。しかし、今回のラサのボランティアを通してそのイメージが間違いであり、私たちがつくった偏見にすぎないということが分かった。そこには大きく分けて2つの理由がある。
まず一つは彼らの明るさでる。とにかく彼らは幸せそうでなにより明るい。私たち日本人からしたら、とても良い家に住んでいるとは言えない人もいたが、そんな彼らですら笑顔で過ごしていた。また、子供たちもとても素直で見知らぬ異邦人に笑顔で駆け寄ってきてくれる。言葉こそ通じないが子供たちにはお構いなしで接してくるものだから遊び疲れながらもその笑顔にいやされ励まされたのを今でも覚えている。フィリピン滞在開始からたった数日で先にあったような否定的なイメージはどこかへ飛んでいた。
そして、もう一つは彼らの寛大さである。私たちはリンガエンに着いてすぐにホストファミリーと顔合わせをしてそのまま彼らと家へ向かったのだが、初めて会った私たちに厚くおもてなしの心を見せてくれた。今回のほとんどの参加者が「くつろいでね」ということばを聞いたことだろう。そして、ホストファミリーたちは、私たちに良い経験をさせようとあらゆるところにも連れていってくれたり、色々なフィリピンでしか食べられない料理を体験させたりしてくれた。
私たちの住む日本は世界的に見ても豊かな国である。だから貧しい国だとか、発展途上国だとかと聞くとマイナスイメージを抱きがちだ。しかし、それは実際に行ってみなければ分からないということを忘れてはいけない。今回私たちが行ったフィリピンも発展途上国であり、生活も日本よりも豊かではない。だが、私は彼らの生活が私たちよりも満足のある生活であり、幸せに富んでいるということを感じた。
S.M. さん 些細な、でも幸せな日常。
今回フィリピンのボランティア活動では、主に生活や行事において日本との違いが多く見られた。例えば、家庭によっては不清潔なトイレやお風呂が屋外にあったり、簡素な建物の造りであったりという経済的不自由さも感じた。特にマニラでは、空気も悪く、ストリートチルドレンが道路にでて遊んでいたりと、常に警戒しなければならない状態であった。
しかし一方で、行事がある度にダンスを披露しあい、バレンタインデーの日には家族で海に出かけるなど恋人同士だけではなく、盛大に多くの人々と自然に囲まれて日常を楽しむという精神的自由さも見受けられたのだ。一番驚いたのは、スマートフォンが十分に普及しているにもかかわらず、毎日のように近所の人や友人が来ては会話を楽しんだりと、人と接することを大切にしていることだ。彼らにとってスマートフォンも会話の手段であるのだ。
また、日本ではゲームやテレビ、スマートフォンは会話を希薄させがちだが、フィリピンでは、それはメインにはなっていないのである。彼らは余剰資金を持っていなくても十分に人生を充実させていて、人生において何が大切なのか優先順位が定まっていると、ホームステイ中のあらゆる場面で感じた。私のホストファミリーとその友人でバレンタインにリンガエンビーチにバーベキューをしに行った時も、お皿に料理を取り分けてくれたり、話してくれたり、笑わせてくれたりと、優しくて、暖かくて仕方がなかった。確かに高級な物をもらうとか、素敵な場所に行くとかも、目に見えるものであり、嬉しい経験ではあるが、フィリピンでは、こんな些細な日常で私は毎回感動させられていた。彼らを一番に幸せにしているのは、大切にしているのは、人とのゆったりと過ごす時間であるということが強く伝わってきたのだ。
これから、大学生活は2年間しかない。他の模範として、資格試験の勉強や大学の勉強もしっかりと頑張りたい。その上で、直接の人との関わりを大切にして進路を考えていきたいと思う。
私の人生はもっと明るく充実させられる。
S.S. さん
フィリピンってフィリピンパブのイメージしかありませんでした。ぼくは知りました。フィリピンの自然を。日本の僕の家は、一歩外に出れば、コンクリート。目の前にはたくさんの家。隣には高速道路が走り、車がたくさん走っています。見上げる空は、電柱やマンションが邪魔をしてそのすべてを見ることはできません。フィリピンの僕の家は、一歩外に出れば、土。目の前には大草原。隣には海があり、魚がたくさん泳いでいます。見上げる空は、遮るものが何もなく、どこまでも見渡せる限り続いています。僕は知りませんでした。世界の広さを。空を見て、海を見るとこの世界の広さを実感することができました。
ぼくは知りました。フィリピンの人を。言葉も通じない、文化も違う、考え方も宗教も違う。そんな僕にも第2の家族、友達ができました。ホストファミリーはいつもおいしいごはんを作ってくれました。僕の好きなものとか苦手なものをしっかり考えてくれて、最後の方の食事はいつも大好きなものしか出てこなかったです。僕の体調をいつも気にかけてくれて、少し咳をしただけで心配してくれて、本当に母親みたいでした。たった2週間ちょっとの間だったけど、僕は家族の一員になれたみたいです。近所の子供たちは本当に純粋無垢で、僕のことを「クヤ、クヤ」と言って慕ってくれました。いろいろな遊びをして楽しみました。あるとき、6歳の男の子が、家の絵を見せてくれました。そこには、その子の部屋と両親の部屋とともに僕の部屋が書いてありました。いつかその家に住みたいです。小さい子たちにはたくさん夢のある未来が待っていて、自分が繋ぐ世代になっている気がしました。彼らが大人になった時どんな世界になっているのだろうか。彼らに幸せな未来を残したいと思いました。学校の子供たちとは友達になれました。アイスを一緒に食べながら語った将来の夢とか、平和についての話とか。「第二次世界大戦って知ってる?」「知ってるよ」「その時、フィリピンと日本は戦ったんだよ」「そうだね」「でも今、フィリピンと日本は仲良し、だって俺たち友達じゃん」そんな会話をしました。青春しました。言葉が通じなくても、笑顔と相手のことを思う気持ちがあれば友達になれると知りました。
ぼくは知りました。フィリピンの闇を。マニラの街並みは衝撃的でした。昼間はガリガリのお母さんが子供を抱えながらぐったりしている。その横を通る白人がお金を捨てるようにそのお母さんにめがけて投げる。夜は子供たちが騒ぎまわり、奇声を発しながらバイクに飛び乗ったり、人と人の間を駆け回る。パンガシナンとマニラが同じ国とは思えないぐらい180°違う景色でした。確かに栄えていた。でも、そこに幸せがあるのだろうか。リュックを前にかけ、携帯を出してはいけない、ピアスをつけてはいけない街は僕にこの世の中の現実を嫌というほど教えてくれました。
今の僕はいろいろなフィリピンを知っています。思い返すと素敵な記憶ばかりがよみがえります。素敵な自然、人の優しさ、家族愛、友情。フィリピンってどんなところか聞かれれば、永遠と語り続けられます。行ってみなければわからないことがたくさんありすぎました。もう、フィリピンでフィリピンパブのイメージは全くありません。フィリピンって最高。
I.H. さん フィリピンでのボランティアを体験して
私は、海外自体がはじめての場所でした。飛行機も初めてだったので緊張しました。その上、現地の人の家にホームステイだったので、不安でした。現地の人が、自分を本当の子供の用に扱ってくれるだろうかと思っていました。最初の日ホストと初めて会ったとき、会話がなかったらどうしようと思っていました。しかし、実際はそんな心配は無用で、飛行機も快適だったし、ホストマザーがたくさん話しかけてくれました。ホストマザーがたくさん話しかけてくれたおかげで、家族のメンバーとも少しずつ話すことができるようになりました。
ホストファミリーは、私を様々な場所につれていってくれました。中でも一番思い出に残っているのは、バギオに行ったことです。バギオには、ジプニーを使っていきました。ジプニーは、見たことのない乗り物でドアがありませんでした。また、とても荒い運転だったので、怖かったです。現地の人は、慣れているのかなと思っていましたが、現地の人も「ローラーコースター」と言っていたので、怖いのかなと思いました。バギオでは、現地の食べ物をたくさん食べました。また、馬にも乗りました。現地の食べ物は、日本とは異なっていたものの、おいしかったです。また、馬はおとなしく乗りやすかったです。馬に乗って移動はしませんでしたが、馬に乗って車道を走っている人もいたので、馬に乗って車道を走ることができるのかと驚きました。
学校建設では、様々な体験をさせていただきました。作業について言うと、様々な作業を体験させていただきましたが、もっともやりがいがあった作業は、積み上げられたブロックの間にセメントを塗る作業です。いままでこのような作業をしたことがなかったのでとても難しかったです。しかし、何度も塗っていくうちに、だんだんうまくなってきたと感じることができました。この作業をしていて気付いたのは建設の場においても、日本とフィリピンの間での違いがみられるということです。その違いは、材料に見ることができました。材料の点では、ブロック、セメントの塗り方にその違いがみられました。ブロックは日本では頑丈であり、すぐに壊れることはありません。それに対して、学校建設の時に使ったブロックはもろく、すぐに割れてしまいました。セメントの塗り方に関しては日本だとブロックとブロックの間を隙間なくセメントで埋めますが、フィリピンは隙間がいたるところで開いていました。
作業のほかにも現地の子供たちと遊ぶ機会もありました。現地の子は初対面の私にも積極的に話しかけてくれました。そのおかげで、人見知りが激しい私でも、自分から現地の子たちのところに行って話すことができました。子供たちはみんな優しくてフィリピンについて様々なことを教えてくれました。
このボランティア活動でこの感想文には書けないほど多くの思い出ができました。20日という滞在期間は長いなと思っていましたが、実際はあっという間でした。
T.S. さん RASAのボランティアを通して学んだこと
私がずっと通っていた英語教室の先生はフィリピン出身で、たまにフィリピンの話をしてくれました。そのことがきっかけで、フィリピンという国に興味を持っていました。海外ボランティアにも興味を持っていた私は、RASAのボランティア募集の看板を見て、フィリピンでホームステイをしながら、18日間のボランティアを行うというプログラムに魅力を感じ、応募することを決めました。そんな軽い気持ちでフィリピンに行くことを決めた私でしたが、実際にフィリピンに行ってみると、すごく充実した日々を送ることができ、多くのことを学ぶことができました。
フィリピンでは、常に人の優しさを感じて過ごしていました。日本では、孤独死など、人との繋がりがないことがよく問題になっています。しかし、フィリピンでは、家族や親せきとの絆が強く、いつもみんなで集まっておしゃべりをしていました。週末には、地域でバレーボールやバスケットボールの試合が行われ、地域の人たちが大勢集まり、みんなで応援をして試合を楽しんでいました。地域の人たちとの繋がりがしっかりあるという点は、日本ではあまり見ることのできない良い点だと思いました。フィリピンは孤独とは無縁の社会のように見えました。また、ホストファミリーやその親戚の人たちは、私を本当の家族のように扱ってくれ、慣れない生活をしている私を常に気遣ってくれました。フィリピンの人たちは、人を気遣う心の余裕みたいなものを持っていた気がします。幸せとは、人との繋がりがあって、孤独ではないという状態のことを指しているのではないかと思いました。また、心の余裕は、人とつながっているという幸福感の中から生まれてくるのかなとも思いました。
スモーキーマウンテンの見学は、私にとってすごく大きな経験だったと思います。フィリピンに行く前、私は、スモーキーマウンテンを見学できるなんて珍しい経験だし、いい経験になるだろうから、ぜひ見学してみたいと思っていました。しかし、実際にスモーキーマウンテンに住む人たちを見て、いい経験になるからぜひ見学してみたいという考えはすごく傲慢で失礼な考えであることに気づかされました。私みたいに大学に行く余裕も持っていて、しかも、海外にボランティアに行くこともできるくらいのお金を持っている人が、住む場所にも困って政府の助けを必要としている人たちの生活を見に行くなんて、すごく趣味が悪いということに気づかされました。また、マニラのレストランで食事をしたとき、レストランの警備員に追い払われるストリートチルドレンの子たちを見ました。レストランの中に入ることができる私と、レストランに入ることのできないストリートチルドレンという差を見せつけられ、すごく複雑な気持ちになりました。私は、お金持ちではないけれど、世界の貧富の差の中では、とても裕福な方にいるという自分の立ち位置に気がつきました。
私は、このボランティアを通して、幸せとは何か、貧困とは何かについて考えさせられました。また、今後は、私が行ったボランティアがどういう意味を持つのかについてや、社会のために自分が何をできるのかについて考えていきたいです。そのために、周りのものや自分の好きなものにもっと貪欲に興味を持って、自分の中に取り入れていきたいです。
N.Y. さん Philippines
私は 2年前、小学校の教育実習でブラジル国籍の少年と出会った。その少年は幼い頃に日本に来たため、日本語も、母国語であるポルトガル語も上手には話せない状態だった。勉強にもついていけず、クラスの子にバカにされているのを知った時、何も出来ない自分に心がモヤモヤした。それをきっかけに私は国際交流や比較教育、異文化理解についての講義に興味を持つようになった。そして何もしないよりも、まずはやってみようと海外ボランティアに手を伸ばした。フィリピンに行くと決めてからの半年間、国の文化や歴史、貧困、教育、言語について調べれば調べるほど、行くことに抵抗を覚えるくらい発展途上の国だった。
そんなフィリピンに行って感じたのは、想像とは真逆のとても幸せな国であること。英語も上手く話せず、タガログ語も通じない私に、みんなが楽しそうに話しかけてくれる空間はとても幸せだった。あまり英語の分からない子どもたちでも、必死に英語で話そうとする姿を見ると本当に嬉しく、可愛らしく思った。言葉の壁は、話したい、伝えたいと思う気持ちがあれば通じ合えるものがあると感じる幸せな18日間だった。
また、フィリピンでの生活は、家族を越えて親戚、近所との繋がりが大切にされており、何かあれば信頼できる人たちで囲まれていると感じた。日本では少子高齢化、3世帯同居の減少など、近所づきあいも少ない印象がある。その点、フィリピンでは子どもの数も多く、家族以外の繋がりがあるため、日本よりも家庭がにぎやかで子どもたちが幸せそうに見えた。しかし、日本では当たり前のことが、そこでは普及していない現実も多く目の当たりにした。ホームステイの暮らしの中では、日本にはあり溢れるほど便利なものが揃っていると実感する毎日だった。そんな発展途上の国ではあるが、私はフィリピンで暮らすことに幸せを感じた。それは、人々が貧しさを感じないほど心が広く、家族や友達、そして街を大切にしていたからだ。
帰国して、日本の住環境の清潔さや、自然景観の美しさは改めて素晴らしいと思ったが、日本人は豊かになるにつれて心が狭くなっていると感じた。時間に追われて生きる日本人は、他人への優越感、劣等感から生じる嫉妬心、固定概念の強さなど、心にゆとりがない人が多い。この日本人の優越感や嫉妬心、固定概念が大人から子どもに伝わり、外国人を軽蔑する心が子どもたちにあるとすれば、それは恥じるべき心であると思う。フィリピンの人々は英語もタガログ語も分からない私を差別することなく、1人の人間としてみんなの輪の中に入れてくれた。日本人も同じことができるのかと問われると、出来ない人のほうが多いのではないかと思う。私が2年前に出会った少年のように、軽蔑されながら日本で暮らしている外国人は他にも沢山いる。私がフィリピンでみんなの輪の中に入れてもらって幸せだったように、日本人もその輪を広げればもっと幸せが増えるはずだ。他人事にそう思うのではなく、まずは自分が外国人でも住みやすい環境づくりや支援活動について考え、行動を起こすことから始めたいと思う。
18日間という短い間だったが、私にとっては濃く、幸せな18日間だった。そしてこれからもホストファミリーはもちろん、一緒に参加したボランティアメンバーを含め、フィリピンで得た繋がりを大切にしていきたい。
Y.R. さん
私はラサの活動を通して三つの大きな経験をしました。一つめは異国の文化に触れ合ったことです。私はこのラサの活動で初めて日本以外の国へ行きました。しかもそこで二週間ほど現地の方たちと生活をするというとても貴重な体験をさせていただきました。その二週間で現地の食べ物、文化、生活などを学びました。文化といえば、エクスカーションの時に乗ったバスで私よりも年下の男の子が「安全な旅になりますように。」と十字を切っていたのを見てとても驚きました。しかし、よく考えれば、これは日本では見慣れない光景だけれども、海外では普通のことなのだろうなと思いました。こんな風に、日本についてもまた考える良い機会となりました。
二つめはフィリピンの現状をみたことです。日本では想像もつかないような環境に住んでいる人がたくさんおり、また、私たちのホストファミリーでさえもすごく裕福というわけではないと分かりました。実際に私が住んでいた隣の家の子は、スマートフォンをなくしてしまった時、大泣きしていました。なぜかというと、日本ではもしなくしても、すぐに買ってもらえる人や、少しお金を貯めれば買える人も多いですが、フィリピンでは給料がとても低く、そう簡単に買えるものではありません。それをわかっていたからこそ、その子も大泣きしていたのだと思います。このように、日本にいては感じられない貧しさについて学ぶこともできました。
最後は家族の大切さについて改めて知ることができたことです。フィリピンでは家族をとても大切にします。日本では家族との繋がりが薄い人が最近は多くなってきているのかもしれません。SNSなどのいつでも友達と繋がれる機能の発達、仕事の都合によって家族と会う時間が合わなくなってしまうなどの影響により家族と過ごす時間が減っています。フィリピンの人たちを見ていると、いつも大勢の家族に囲まれていて、幸せそうにみえます。恐らく私たちのおじいちゃんやおばあちゃんたちは現在のフィリピンの人たちのような生活をしていたのだろうと思います。日本は経済成長を終え、これからまた苦しい時代に入っていくと思います。だからこそ、もう一度、「幸せ」とはなんなのかを考えていく必要があると思います。