フィリピンの恵まれない児童に学校を! 給食を! 教育こそ貧困の連鎖を断ち切る力になる

ボランティアの声2010年

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● 私にとって、このRASAの活動で行ったフィリピンが初めての海外でした。ふと手に取ったチラシを見て、考えているだけでは何も始まらない!「行ってみよう」と自ら決心。両親の後押しはあったものの、フィリピンへ行ったことのある知り合いや友達に「始めての海外でフィリピンは、刺激やショックが強すぎるんじゃない?」と言われることもありました。それはきっと、まずは先進国で海外への憧れや魅力を感じて、それから発展途上国に足を運んだら?という私へのアドバイスだったのだと思います。しかしそれは、私には全く関係なく、RASAに参加することに迷いはありませんでした。なぜなら、私がRASAに参加する目的は、私たちの支援が頼りにされている現場は、実際にはどのようなところなのかを肌で感じ、世界各地で行われている募金や寄付など―どこかの誰かの力や心が、確実にどこかの誰かの力になっている―と言うことを感じることにあったからです。そして、フィリピンでの18日間+2日間で学んだことは数えきれず、感じたことの大きさも計り知れません。その中でも特に納得させられたことは、どんなに多くの本を読んでその国の知識を得ることよりも、現地に赴き・現地の人々と生活を共にすることの方が、その国・その相手を深く理解できるということです。それに、不思議なことに長い間生活を共にすると、いつの間にか自分自身も現地の人に馴染んで行くのです。実際に、日本に帰ってきてからビックリされたこともありました。雰囲気が全く違っていたようです。友達にもフィリピンに行ったばかりの頃に撮った写真と後半に撮った写真とでは全然違って見えるといわれました。水道はなし、水掛でのお風呂・空気椅子トイレ・エアコンもなし・洗濯機もなし・お父さんお母さんは右手でご飯・夜はゴキブリ・昼間はハエ・車は窓なし・超早寝早起き、大げさに言ったら日本とは180度も違う生活様式や習慣でした。だけど、それは私にとってショックや恐怖、不安ではなく、目の前にある現実であり、それを受け入れることからフィリピンでの生活が始まりました。そして、受け入れるうちにそれが当たり前となり、Tanglawの人々の生活習慣や価値観を深く理解することができるようになったのです。そして、私のこともホストファミリーに理解してもらえていたと感じました。なんといっても、お別れのときにもらった手作りのアルバムの中に、私の性格をズバリと当てた単語が書かれていたんです。言葉や文化は違っても、同じ空間で・同じ時を過ごし、相互の違いを受け入れることができたら、相手のことを深く理解できるのだと確信しました。だからこそ、私のホストファミリーの家は住み心地も、居心地もよかったのだと思います。そして何より、この18日間でホストファミリーの存在はすごく大きかった。最初に会ったときに、一輪のバラの花をくれました。一番印象に残っているのは、お腹をこわしてなかなか寝付けなかったときそれに気づいて起きてきてくれて、お腹にスーッとするオイルをぬってくれた。それから少し寝られるようになって、朝「もう大丈夫だよ」って起きていくと、家の前の道をほうきで掃除していたママニータが泣きながら駆けてきて、抱きしめながら「あなたは私の娘だよ」といって心配してくれたのです。私もホームステイ先がこの家でよかったと心から感じました。今でも私にとって第二のお母さんであり、ホストファミリーは大切な第二の家族です。想像をはるかに越えたTanglawの人たちの歓迎や逆にパワーをもらったTanglawの子供たちの笑顔、ツマナ小学校の子供たちの笑顔に、学校建設のお手伝いで恩返ししたとしても、足りないくらいだと思いました。辛いこともあったけど、残っているのは楽しい思い出ばかりです。2010のRASAメンバーと一緒に活動できて本当に幸せでした。この貴重な財産を原動力にして、前に前に進みたいです。RASAの理事の皆さん、このような素敵な活動に安全に参加させていただき、本当にありがとうございました。

●家がブロックでできていて、地震が来たら今にも崩れそうだったからです。ホストファミリーが用意してくれた私の部屋は、一畳半ほどの広さであり、パーテンションで仕切られたものでした。水道はなく、ポリタンクに溜められた井戸水を使って生活しました。私の大の苦手であるゴキブリやネズミもそこでは人と共存していました。

●私のホストファミリーは、パパとママと5人の兄弟でした。もうすでに大学を出たお兄ちゃん、お姉ちゃんの目標は、下の妹や弟たちみんなを大学から卒業させることだと言っていました。したがって彼らみんなが大学を卒業するまでは結婚もせずに、家のためにお金を入れると言っていたのです。実際に私のホストファミリーの家計は働いている子どもたちの収入によって支えられているのだとホストマザーは教えてくれました。その話を聞き、私は非常に胸が苦しくなりました。日本での私は、大学に行かせてもらうのが当たり前のようになっていて、アルバイトも自分の遊びや服にかけるお金を稼ぐためのものだったからです。

●実際の活動は思った以上に過酷なものだった。日本のような建築機材はなく、ほとんどが手作業で、さらに暑さも加わり作業が終わる頃にはくたくただった。しかし、その分着々と出来上がっていく校舎の様子を見るたびに充実感でいっぱいになった。

●また、フィリピンは外と内との境界線が非常に薄いと感じた。夕方には自宅に友人が毎日のように訪れ、当然のように居間でくつろぎ家族も当たり前のようにそれを受け入れる。そしてそれぞれの部屋の入り口も暖簾のようなものだけでほとんど仕切りはない。家の鍵も簡単に開け閉めのできる金具を引っ掛けるものであり、その目的も犬や猫が勝手に家の中に入ってこないようにするためだそうだ。日本では防犯のために厳重なセキュリティが整備され、外と内とを完全に隔絶する。そのためにフィリピンでの開かれた空間での生活は穏やかで、集落そのものが家庭のような、日本では失われてしまったそんな温かさがあった。

●蔵の財より身の財、身の財より心の財」この言葉は、フィリピンを発つ最終日に日本料理店のオーナーに言われた言葉です。RASAでボランティアをし、フィリピンの人とRASAのメンバーに出会えたことは、私にとって心の財です。本当にフィリピンに来てよかったです。フィリピンに来なかったら、親を大切にすること、お互いを助け合う大切さを学ぶことはできなかったです。

●ホストマザーは朝から洗濯、子供の世話、弁当を作り学校に持っていく、内職のカーテン作り、夕食の準備といつも忙しそうだった。ホストファザーは小さい建設会社で働いていて、夜は二輪バイクでタクシーをしていた。夜中の2時に帰ってくる日も何日かあった。そして、疲れたと言いながら次の日で使う仕事の道具の準備をしていた。こんなに一生懸命働いていても稼ぎは多くない。マニラにいけばストリートチルドレンがたくさんいる。フィリピンでは所得格差がかなり大きいのだなと実感した。その根底には教育がしっかり受けられない子どもがいることが一つの問題なのだと思った。ボランティアとして学校建設を少し手伝ったが、もっと教育設備がよくなるといいなと思います。僕たちがやった手伝いは小さいことかもしれないですが、できた校舎で子供たちが教育を受けられることでフィリピンをよくしていく人間が増えてったら僕たちのボランティアも成果があったといえるのかもしれません。

●ありがとうと素直に自然に出せるようになった、これがRASAに参加する前と後の大きな違いだと思います。 1月には学校が出来るということなので春休みに村へ行きたいと思います。1番感じたことはイメージだけで物事を決めることは非常に危険だということです。フィリピンに対しての僕の事前知識は政治腐敗や昔起こった誘拐事件などで、危険な国だなというイメージでした。しかし、実際見たフィリピンは(まぁ、地区によるけど・・・)親しみやすい、陽気で明るい人々でした。現地の企業の方がおっしゃっていたように現地現物をモットーにこれからの時間を有効に使いたいです。今度、

●私はペンキが上手くできない代わりに力仕事で人一倍頑張ろうと、古傷の腰に鞭を打って毎日朝から晩までスコップを離さなかった。手は血だらけになり、いくつものマメができた。毎日の無理が効いたのか、体調を崩し寝込むことになってしまった。みんなは暑い中頑張っているのに、私だけ力になれず悔しくて枕をぬらした。

 ●その姿を見かねたホストマザーが“きっと、あなたの空いた穴を埋めようとみんな必死に頑張ってくれているわ。さあ、冷めないうちにお粥をすぐに食べなさい。”と病気の私の心のケアまでしてくれたことを忘れることはできない。また下痢と熱で何度も夜中に起きる私に気づくと、決まって白湯をくれた。白湯自体には味はないが、私にはマザーの愛情が感じられる温かい味わいであった。タガログ語も少し話せるようになりたいです2010の夏のフィリピンの思い出は一生、貴重な宝物になると思います。Maraming salamat po!

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